QUBEEN
さいたま市をタダで紹介
さいたま市推奨 336
1. 336って何よ?
題名にもある、336について調べてみる。
1.1. 名前の由来
- 昔住んでたトコの郵便番号。下4桁は知らん。
- 今は "330" に移住し、下4桁がもれなく付属する。
- Wikipedia で調べても、特に記載なし。
1.2. どうでもいい話
郵便番号をちゃんと記載すれば、かなり省略した住所書きでも郵便物は届くようだ。こんな実験をしたことがある。
- まずは没になってもいいように、一番料金の安い葉書を用意し、適当な内容のお手紙を書く。白紙は避けてね。
- 郵便番号は、下4桁もちゃんと入れ、かつ、きれいな字で書く。機械による自動読みからポイされると、担当の人も気を悪くして、更にポイする場合があるからだ (内部告発)。
- 次に住所だが、県・市・区を省略。例えば "日本県日本市日本町1-1-1" だとしたら、"日本町1-1-1" とだけ書く。
- ポストに投函する。
さて結果だが、宛先元に2日後、ちゃんと届いた。
まあ、どうでもいい話だな(-_-)
1.3. 神秘的な話
336 とは、ある意味秘密の数式でもある。
- 問題
- 可愛い女の子が3人いました。そこへハナタレ小僧が3人やって来ました。さて、全部で何人いるでしょうか?
これを脳細胞で計算すると、3人プラス3人、 3 + 3 = 6 という図式が成り立つわけで、つまりこれは 336 の現してる基本的な意味である。
次に、現在の郵便番号には下四桁が存在するわけで、これを踏まえて考えてみる。簡単な解釈として、 3 + 3 = 6 で6人になったわけだが、でもやがて彼らは結婚し、夜の営みが繁栄に育まれ、そして子供が生まれる。そう、お察しの通り生まれてくる子供の数が、現在の下四桁に隠されてるわけなのである。
詳細は以下の通りである。
- 3 + 3 = 6、これは、( 1 + 1 ) × 3 = 6 というモノに置き換えられる。1組のカップルが誕生し、それが3カップルできた、つまり、ここには6人いるのね、と。
- ( 1 + 1 ) は、結婚を意味する (しない場合、子供は必ず認知すること)。つまり、( ♂ + ♀ ) ということだ。
- ( 1 + 1 ) を展開すると、♂ + ♀ = ∞ といった意味深な図式となり、× 3 を解釈するならば、3組の男女の遺伝子の総数が下四桁に現されてる、ということに結論づくのである。
しかし、この論文は、適当な行き当たりばったり的に創作されたもので、従って、 336 という数字に秘められた謎は未だに解明されてないのである。一説には、シュメール王朝時代の幸福を表す数字である、あるいは、日本ピラミッド王朝時代の結合を表す数字である、されるが、そのどちらでもないのは確かだろう。また、カバラ、ヨハネの黙示録、でないことも確かだ。
2. 浦和市の歴史
埼玉県の旧浦和市について、簡単にまとめてみる。
2.1. 名前の由来
- 大昔、根岸・高砂辺りまで曲がりくねった海岸線だったことから浦曲、これが浦羽、して浦和、だとさ。
- 入間川の流れが屈曲していた土地、又は中州のことから浦回、浦廻、浦曲、だとさ。
- "浦" は海岸線の意、"和" の由来はわからず…だとさ。
- "浦" は "裏"、"和" は "倭" 。興味があったら調べてみて頂戴。
いろんな説があるが、定かではないってのが現状だ。どっちにしても水関連だろと。事実、浦和には貝塚があるし。でも、裏倭も捨てがたいな。
2.2. 主に有名なもの
- 中山道・中仙道
-
言わずと知れた五街道の一つ。その歴史は古く、大化の改新頃までさかのぼるというが、その頃、生きてたわけじゃないからよく知らない。中山道と中仙道、正式には中山道が正解で、読みは「なかせんどう」だ。そんでもって旧中仙道とも言うが、どっかのボケ女子アナは生放送 (フジ系列) で「いちにちなかやまどう」と読みやがった。完璧なハナタレだな(-_-)
- 調神社
-
武蔵国四十四座のうちの一社。創建は第十代崇神天皇時代。兎の石像が境内あっちこっちにあるが鳥居はない。鳥居が無いのは、ここは、律令制 "租庸調" によって伊勢神宮に納める貢物の調をあつめる倉庫があった、みたいで、貢物の搬入・搬出にじゃまになるので鳥居はうっちゃっちゃった、という。つまり倭人が支配したってこと。読みは「つきのみやじんじゃ」、「つきじんじゃ」。地元人間を装うなら「つきのみやじんじゃ」と言おう。(''? … 倭人ねぇ。だから裏倭なんか?
鳥居が無いことについては、他にも説がある。ダニエル外伝 (※1) によれば、大国主命からの伝言をスサノオに渡すため、出雲から白兎 (へロット) が浦和の調神社にやって来た。スサノオは白兎を歓迎し、毎晩の様にウナギパーティーを開いた。白兎は楽園の仲間を呼び寄せ、毎晩境内で運動会を開いた。そして羽目を外し過ぎ、境内の鳥居をポキポキ折ってしまった。白兎は反省し、自分のモチーフをスサノオに贈呈した、という話。だから鳥居は無いし、ウサギがたくさんいるわけだな (軽くスルーでお願い) 。
※1…ダニエル外伝とは、"ダニエルへの手紙" , "ダニエルの黙示録" , "麹園 (こうじえん or こうじのうたげ)" , これら3書物の解読と、ダニエルとの接触エピソードをまとめた書物。著者は首田狩哉。
- 十二日市
-
毎年 12 月 12 日に行われる大歳の市。この日の露店の数は凄まじいものがある。読みは「じゅうににちまち」だ。屋台のヤキソバは午前様が近づくにつれて安くなっていく。その代わり、肉とキャベツの量はごっさり少なくなっていく…。
- 見沼通船掘
-
川と川とを結んだ時にできる段差を、人為的に調整した徳川吉宗時代の施設。パナマ運河やスエズ運河より素晴らしい出来だ。附島 (つきしま) 氷川女体神社の北側に位置するのが、見沼通船堀西縁、芝川を挟んで東縁となる。比較的古い家には、木船が普通に置いてあるよ。車は大間木公園に駐車しよう。路駐厳禁(-_-)
- 鰻の蒲焼
-
蒲焼の発祥地。こりゃ美味い。最近は中国産鰻に汚染されてか味は少し落ちてきたが…と。とりあえず歩いて行くなら浦和駅西口降りて中山道まで出て、左に満寿家、右にかなり歩いて山崎屋、まっすぐ突っ切って左に中村家、どっち行っても鰻屋がある。車ならちょっと贅沢に原山の谷田川、他にも別所沼のそばの萬、ちょっとわかりずらいトコだが太田窪の幸楽園、その近くの小島屋、などなど色いろだ。
太田窪の幸楽園だが、ここは大昔に領ケ谷城があった場所で、新田自治会館の敷地内には、領ヶ谷山天満宮が建ってる。店の南側は上谷沼調整池が広がってて、仕事さぼって昼寝するには絶好の場所だった。だけどこの辺は道が狭いからパニック状態になること多し。超ローカル話だが、この太田窪の幸楽園と小島屋、それと別所の萬は、仕事でお世話になった店でもある。ついでに、D家は谷田川から出前をとるね。
- 浦和レッズ
-
我が命(`o´)、だったが、今はそうでもない。
- 浦和競馬場
-
しょぼいが馬が走ってる…。夏は花火やる (毎年ではない) から浴衣着てウキウキするのもいいね。でも入場券は役人が牛耳ってるから、コネ (地元ゼネコン) がないとほぼ手に入らん。
- 駒場競技場
-
今じゃ有名な駒場スタジアムだが、浦和レッズが来る前は悲惨な施設だった。なんかの競技が閲覧者有料でやってても、堂々とドブ川方面 (バックスタンドもどき) から入れた。メインスタンド以外は全部芝生、と豪語してたが、単なる草。今と比べるとレトロだったね。
現在のメインスタンド側入場ゲート付近、あそこにはちっちゃい沼があった。ビンドウ使って小魚獲ってた記憶がちらほら残ってる。所謂、沼神様がいたのもそこだ。
道を挟んでプラネタリウムのある小山、あそこ昔は火葬場だったんだよ。毎日煙突から黒煙が出てて、アレ見るとみんな手ごちゃごちゃさせて拝んでた。空気もよくわからん臭いが凄かったね。その小道は小山をほぼ1周するんだが、夜道に1人で歩くのはやめた方がいい。色んなモノに遭遇するから。その火葬場の繋がりで今あるのが産業道路沿いのセレモニーホール。あそこに車とめてサッカー見に行っちゃダメね。その隣に公園があってその奥にはお墓がある。
ちなみに、駒場に火葬場が出来る前は、西口の北浦和公園付近 (字砂原) が火葬場だった。そして駒場へ移設され、今現在は大久保に移設されてる。北浦和駅周辺にはセレモニーがたくさんあるのは、そういった背景があるからなんだ、と言われてる。
余談だが、駒場改装の前、DとかKとかW等は、あそこでバイクレースやって遊んでた。通称:駒場オート、参加車:4台とか。主に RD50 がメインで、あとはパッソルとかパッソーラ、そのうち、タクトも参加してきたね。でも数十分で誰かに通報され、免許持ちの参加者にバイク預けてトン子、つまりまだ免許も取れないお子ちゃまだったのよ(´o`)
- 浦和市営球場
-
総合グランドをサブに持った、硬式野球場。社会人野球や高校野球の予選の他、DやP達もここで試合やってる。そんで、試合中、レフトを守ってたアキラ呼んで話してたらボールが飛んできて、アキラはエラーした。その後、すんごい怒られたw
プロ野球もロッテ主催の2軍の公式試合が、たまに行われる。運がいいことに、球場内を見渡せるマンション建設にお世話になってた時、長嶋一茂がやって来た。無論、スタンドは満員チケットなし。なんで、マンションの屋上から仕事サボって職人みんなで見てたよ。やつが打ったライト方面への打球は只者じゃなかったな。
今は駐車場になってるサブグランのライト側、昔ここは弓道の練習場だった。練習場って言ったって、球場との境に的があっただけ。で、この的があった辺りは、フェンスで侵入を拒んでいたんだが、人がすっぽり入れるだけの穴があった。だから、野球なんか見に行く時は、チャリンコを弓道場に置いて、フェンスをくぐって侵入していった。もう一箇所、侵入口が存在したが、あそこはバックスクリーンに係員がいると発見されやすかった。
- 天王川
-
今じゃほぼ暗渠化され、遊歩道などになってるが、以前は、大雨毎に氾濫してた。そういや、サンパチが没したのもこの川だ。そのサンパチが没した辺りから、坂を上がって行くと "29" が住んでる。天王川の名前の由来だが、北浦和東口に城北信用金庫がある。地形的には天王川からかなり高い所に位置するが、ここに天王山という山が存在した、みたい。で、その下を流れてるから天王川、と付いた、らしい。この天王山だが、牛頭天王を祀ったとされてる。そういやあれだね、浦高前の変則5差路、自転車屋さんの脇に何かあったような気がする。あとその裏の家の庭にも、と。
浦高通りから一方通行を南西に直進、天王川付近まで一気に下り坂、北浦和小学校辺りから緩い上り坂で旧中仙道に、と。ここはPとスケボーで遊んだ覚えがあるね。
この天王川をどんどこ南東に進んで本太中学校をスルーしていくと、かの有名な中華白山がある。給食食わないで白山の2階で餃子ライス食ってたのは誰だっけか。てか、この店よく行ったが、表から入った記憶が一度も無い。ついでに、浦和市立の東側の道、高原 (一瞬浦和レッズの選手) 君が事故を起こしたレッコ (←ローカル) の家の前の道だが、航空写真で見ると色んな意味で興味がわいてくる。
- 浦和刑務所 (2012-04-23 更新分)
-
埼玉県庁の南側には、さいたま地方裁判所、さいたま少年鑑別所、さいたま拘置支所、さいたま法務総合庁舎が並んでる。ここは元浦和刑務所の跡地だ。
「
現在浦和市に所在する豊多摩刑務所の名称を、地名を冠した浦和刑務所に改めようとするもの
」と、昭和32年の衆議院会議録に記されている。つまり、この刑務所は豊多摩刑務所と呼ばれていたが、浦和刑務所に名称変更された、ということだろう。豊多摩刑務所なんだが、元は中野にあった刑務所。なんかごっちゃになりそな感じ。
「
千四百二十四号の豊多摩刑務所移転促進に関する請願、これは浦和市の豊多摩刑務所移転期成同盟会の会長の小谷野伝蔵さんから請願されておる
」昭和31年参議院会議録から抜粋、"小谷野伝蔵さん" とは、歴代の浦和町長、浦和市長さんだ。議事録の中では他に、豊多摩刑務所は戦災で消失し、戦後に建て直された。新しい施設ではあるが、県政の中心である埼玉県庁の前に建つのは色々と都合が悪い。なので、移設を請願、といった流れだ。
県庁から国道17号経由で、さいたま市役所 (浦和区役所) 方面に向かう。役所の交差点を左折 (西へ) し直進すると、新しく「鯛ヶ窪」が架かった。昔は、越谷街道を進んできても、市役所を通り過ぎ、更に直進すると谷底に下りて左に別所沼を感じ、再び高台に、そしたら道がない…みたいな感じだった。
この鯛ヶ窪橋手前の信号を右折した左側に、石碑とお墓がある。これは、更正園の碑と在監人合葬之墓だ。橋が架かる前は、鯛ヶ窪墓地だったが、これ以外のお墓は移設したみたいだ。つまり、この碑と残されたお墓は、浦和刑務所内で亡くなった方が今でもこの地に眠っている、ということ。秩父事件も関係してる。
- 超ローカル常盤事情 (2012-01-21 更新分)
-
超ローカル話として少し残しておく。中山道の新浦和橋付近に "常盤町局前" というバス停がある。局というならば、郵便局やら放送局やらが、あるはずだがバス停付近には見当たらない。郵便局はそこから南西へ約 245m の場所に、NTT (電話局) は西へ約 320m の場所にある。どちらも "局前" とした建物とは程遠い。でもこの "局前" という名称は間違ってるわけではない。今現在の浦和常盤局は、元々中山道沿いの、今は影も形も無くなった某工務店の隣にあったのだ。今現在の、コインパーキングがその跡地だな。
そうそう、この某工務店の地は、DやらPやらKやら、あっちからもこっちからも4Fに集まってきて、大騒音を繰り返してた場所でもある。しかしながら、惜しまれながらもその物語に終止符を打ち、工務店は抹消し本社ビルは解体されていった。
しかし、この解体中に伝説となる大ハプニングが起こった!
会社消滅への様々な怨念パワーが解体中の本社ビルに襲い掛かり、中山道沿いに張り出していた2階の別棟を突然崩壊させたのだ。その瓦礫は中山道を覆い尽くし、一時通行止めの大混乱を起こさせた。この自然現象は、当時、超ローカル新聞の埼玉新聞が、ハス向かいの建物エルドラードから見下ろした崩壊写真を掲載したほど、恐ろしい出来事としてアーカイブされたのであった。
もう一つ、超ローカル話だが、この某工務店関係者の車を狙ったマジック婆が近くに住んでいた。車を工務店前に置くと、遠くの物陰から物色し始め、人気がなくなった瞬間を狙い、マジックで車のボディに落書きする婆だ。とんでもない婆がいるもんだ、と、某工務店の社員が監視体制をとったのは、当然のことだっただろう。餌食となったのは、セルボロボロ、ベンツ560、クレスタ、ハイラックス、などほぼ全て。
さて、この某工務店の地だが、東へ歩くと線路に突き当たる。今現在は歩道橋で三角稲荷側に渡るようになってるが、大昔は地下道になってた場所だ。他に地下道があるトコは、三角稲荷から東通を浦和方面に行った坂下辺りにある。これを西口へくぐると六間道路の延長上に近い場所に出てこれる。いなげやに行く時は、この道をよく使ったもんだ。もう1つは、西口のトーヨーカー堂付近の地下道。
2.3. 浦和市の年表
- 1889年 (明治22年)
- 町村制施行により、浦和宿が北足立郡浦和町に格上げ。
- 1932年 (昭和7年)
- 北袋を除く木崎村・谷田村が、浦和町に参入。
- 1934年 (昭和9年)
- 市制施行により、浦和市誕生 (城下町川越、五家宝熊谷、鋳物川口に遅れをとる…ι)。
- 1940年 (昭和15年)
- 尾間木村・三室村が、浦和市に参入。
- 1942年 (昭和17年)
- 六辻町が、浦和市に参入。
- 1955年 (昭和30年)
- 土合村・大久保村が、浦和市に参入。
- 1959年 (昭和34年)
- 戸田町から松本新田・曲本・内谷・堤外一部が分離、浦和市に参入。
- 1962年 (昭和37年)
- 美園村のうち、旧大門村・野田村区域が浦和市に参入。
- 1999年 (平成11年)
- 長年住み慣れた浦和を去る、一路大宮へ。
- 2001年 (平成13年)
- 与野市・大宮市と合併し、浦和市消滅…南無
3. 大宮市の歴史
埼玉県の旧大宮市について、簡単にまとめてみる。
3.1. 名前の由来
- 初詣参拝客で、全国的に有名な氷川神社は武蔵国一の宮、これが「おおいなる宮居」と言われ、して大宮。読みは「おおみや」。神社の裏にはでっかい沼があって、花見時、アホが落ちる。
3.2. 主に有名なもの
- 氷川神社
-
武蔵国一の宮、神は出雲出身のエリート (素盞鳴尊、奇稲田媛命、大国主命、所謂三氷川家族) といった顔ぶれ。大正天皇は出雲大社に参拝する代わりに此処に来てる。創建は色々説があるが成務天皇時代だろう。一の鳥居は氷川参道と中山道が合流するところ、して本殿に1番近いところが三の鳥居。
氷川神社って何なの?みたいな謎もある。この氷川神社だが、大規模小規模全部合わせたら何百あるかわからんほど、特に、埼玉県を中心に存在する。そもそも、"ヒカワ" は、"氷川" という漢字ではない、という力説も存在するので、興味ある人は調べてみてね。
ちなみにローカル的遊び方だが、大宮公園は護国神社の方から入り込むのがいいね。ただし、路駐はできないから車はちゃんと駐車場に入れてくれ。で、早朝、マツボックリ拾いで体をほぐして、というのが理想。だけど、早朝清掃の人も出没するので、彼等より先にマツボックリ拾いを行わないと、全部ゴミとして処分されちゃうから注意。マツボックリ拾ってどうすんのよ?、みたいな質問には一切お答えしませんのであしからず御免。
- 十日市
-
毎年12月10日に行われる大湯祭 (だいとうさい) 、この日の露店の数は凄まじいものがある。読みは「とおかまち」だ。ただね、イカの丸焼き売ってるんだけど、ありゃ固くて食えないよ。イカの皮は剥いてから焼いてくれ、と希望する。
- 大宮駅
-
駅構内に入る為には、ただひたすら長い階段を上って行く (エスカレーターはあるよ) 。東北・上越各新幹線の分離点、すなわち此処が出発地点。ちなみに大宮から東京まで、新幹線で20分くらい。ぐっちゃぐちゃの京浜東北線乗るなら、1食我慢して新幹線に乗ろう。痴漢にも遭わなくてすむよ。西口交番前には、たまにクビーンタクシーが待機してる。客はPだ。
西口駅前だが、バス乗り場とタクシー乗り場があり、交番前辺りに一般者が停車できるスペースが暗黙的に確保されてる。ちょっと問題があるのは、バスで大宮駅西口に来た場合、そこから2階のデッキまで階段を上り (エスカレーターはない)、構内に入ることになる、という点。そんなの面倒だからそのまま入ろうとすると、横断禁止道路を渡り、駅構内に上っていくエスカレーターを使うことになる。ありゃ、役所と設計屋のミスだろな。うちの母ちゃんは、「足が悪いから横断するよ」、と言っていっつも渡ってる。交番の警官は見てみぬ振りが日常の風景だ。車椅子を使う人はどうすりゃいいんかね?
- 大宮公園野球場
-
しょぼいがベーブ・ルースら大リーガーがここで試合をしてる。ただこれには裏があって、これら大リーガーと同行した人間のほとんどが諜報局員、いわゆるスパイ。戦前、これから戦争になることを察知したアメリカが送り込み、東京など主要都市の情報を調査。東京大空襲はこの時計画された。つまり野球の試合と称した諜報活動だったわけだ。今じゃ、西武ライオンズがここで興行始めてる。つまり、利権が動いてるってこと。
- 大宮サッカー場
-
以前はしょぼかったが、高校全国大会でも使われてた。浦和の不敗神話 (実際はかなり負けてる) の場。駒場で勝てなく大宮で勝ち星量産。その大宮サッカー場も改修されて、今は大宮アルディージャの本拠地に。
- 大宮競輪場
-
ギャンブル施設。競輪場トラック内の芝生のトコでサッカーの試合をすることもある。浦和が馬なら、大宮は車輪だ!
- 盆栽村
-
盆栽園が数十軒集まる集団地域。地名にも盆栽町と記されてる。のんびりと眺めながら酒を一杯(´o`)
- 西大宮駅
-
川越線の指扇駅と日進駅の間に、新設された駅。利用者のほとんどは埼玉栄高校関連の人だろう。開発が始まるまでは何にもなかったトコだが、国道16号バイパスが開通した頃から、雰囲気が変わり始めた。埼玉栄の西側には遺跡等が埋まってて、大変なもんが出てくるんじゃないかね、と、抜け道になってるトコの某地元人が言ってた。
- 秋葉の森公園
-
大宮アルディージャが練習とかに使うこともある、スポーツ施設。てか、バーベキューとかもできる。ここは何にもなかった湿地帯。あんまし教えたくないが、秋葉神社、天神社、日産の裏辺りの散策は、色んな意味で興味深い発見がある。あたしゃ数年、お世話になった土地でもあるので、あんまり荒らさずにそっとしといてほしいね。
- 側ヶ谷戸古墳群
-
大宮の三橋から与野の円阿弥にかけて、古墳群が存在する。特に、稲荷塚、茶臼塚、台耕地稲荷塚のそれぞれ古墳は、現状を維持してる。場所的には、鴨川 (旧入間川) の東に位置し、南方面には浦和の大久保古墳群が連なってる。台耕地稲荷塚は、小さな山に鳥居が多数あり、それをくぐりながら登っていくと、終点に稲荷社が祀られている。車は駐車できないから、徒歩かチャリンコでお願い。この古墳群散策と共に、鴨川流域や側ヶ谷戸地域の散策は、かなり興味深いこと間違いなし。キーワードは "砂鉄" だ。
3.3. 大宮市の年表
- 1889年 (明治22年)
- 大宮宿・土手宿村・上天沼村・下天沼村が合併し、北足立郡大宮町発足。
- 1932年 (昭和7年)
- 木崎村北袋が、大宮町に参入。
- 1940年 (昭和15年)
- 大宮町・三橋村・大砂土村・宮原村・日進村が合併し、大宮市に格上げ。
- 1955年 (昭和30年)
- 指扇村・馬宮村・植水村・片柳村・春岡村・七里村が、大宮市に参入。
- 1999年 (平成11年)
- 浦和から大宮市内に引越し完了…ι
- 2001年 (平成13年)
- 与野市・浦和市と合併し、大宮市消滅…南無
4. 与野市の歴史
埼玉県の旧与野市について、簡単にまとめてみる。
4.1. 名前の由来
- 知らん…。
- 推測・憶測
-
「与」てのは、なんかの間とかの意味。よって、大宮宿と浦和宿の間、とかの意味で、つまり土地絡みなんじゃないかね、大原の大ケヤキは半里塚と言われるし、と。てか、与野にも宿があったなぁ。
ちなみに北与野開発時に、縄文時代の遺跡が出てきてる。実際、根切してる時にお目にかかったよ。その後の与野西口開発、駅前通が広くなった時の道路工事はひっちゃかめっちゃかだったな。方や水道屋、方や東電、そんでもってのゼネコン親父がウロウロ。うちらも負けじと大型標識引っこ抜いてた。あとあれか、下落合交差点から産業道路に抜ける赤山東線も立派になったね。所謂、日本信号の脇道は消滅した。
4.2. 主に有名なもの
- 与野公園バラ祭
-
年5月下旬から開催されるバラだけを飾った祭り。てか10月の方が人も少なく穴場だ。
- 与野七福神
-
弘法尊院 (弁財天), 妙行寺 (毘沙門天), 円乗院 (大黒天), 天祖神社 (寿老神),
一山神社 (恵比寿神), 正円寺 (福禄寿), 圓福寺 (布袋尊) - 芸術劇場
-
たっぷりと税金を使って建てた公共施設。ところが、知ってる有名人はめったに来ない。
- 与野夏祭り
-
本町通で行われる、夏のお祭り。御神輿が出たり、露店が出たり。当日は交通規制があるから、車で近づくことはまず不可能だ。
- 大原の大ケヤキ
-
推定樹齢300とか500年とか言われてた与野駅東口、旧中山道沿いの大ケヤキ、残念ながら老木の為、2010年5月19 〜 20日にかけて伐採された。シンボル的なケヤキだったけど、惨事が起きる前に何とやら、ということでしょう。でも、いつも見慣れてたモノがそこに無いと、寂しい気分になるのは当然だろな。
この大ケヤキは旧中山道沿いの目印ではあったが、所謂、一里塚ではなく半里塚 (稲荷神社の御神木)。一里塚は、浦和橋の付近 (笹岡稲荷神社) と、大宮は吉敷町交差点手前辺りかね?
浦和レッズの大原サッカー場に隣接する大原中学校は、昔 (1984年まで) は上木崎にあって、うちらの年代は上木崎に通った。1972年の全国中学校サッカー大会で優勝したのは、上木崎の大原中学校、1988年に優勝したのは現在の大原中学校 (ちなみに本太中学校は1975年と1977年に全国優勝) 。あの辺一帯は北袋の方にかけて大原と言われてた地域で、だからこの大ケヤキも「与野の大ケヤキ」ではなく、「大原の大ケヤキ」と言う、らしい。元大原中学校跡はさいたま市の施設に変わってるけど、お化けでも出そうな古ぼけた校舎が興味を注ぐ。
4.3. 与野市の年表
- 1889年 (明治22年)
- 北足立郡与野町、小村田村、下落合村、上落合村、中里村、大戸村、鈴谷村、上峰村、八王子村、円阿弥村が合併、与野町発足。
- 1958年 (昭和33年)
- 市制施行により、与野市へ格上げ。
- 2001年 (平成13年)
- 浦和市・大宮市と合併し、消滅…南無
4.4. 与野市の成り立ち
- 与野領 (江戸時代)
- 1 町 22村
- 与野町 (鎮守:小村田氷川神社), 小村田村 (鎮守:小村田氷川神社), 上落合村, 下落合村, 中里村, 大戸村, 鈴谷村, 上小村田村, 中小村田村, 並木村, 上峰村, 山久保村, 元宿村, 中島村, 町谷村, 千駄村, 西蓮寺村, 道場村, 新開村, 西堀村, 関村, 鹿手袋村, 田島村
- 与野町連合戸長役場 (1884)
- 与野町, 小村田村, 上落合村, 下落合村, 中里村, 大戸村, 鈴谷村, 上小村田村, 中小村田村, 針ヶ谷村 (木崎領), 円阿弥村 (植田谷領), 八王子村 (植田谷領)
- 上峰村は、五関村連合戸長役場に属す。 上峰村, 五関村, 上大久保村, 下大久保村, 領家村, 神田村, 宿村, 塚本村, 在家村, 白鍬村
- 与野町 (1889)
- 与野町, 小村田村, 上落合村, 下落合村, 中里村, 大戸村, 鈴谷村, 円阿弥村, 八王子村, 上峰村 (五関村連合戸長役場)
- 上小村田村、中小村田村は、大宮に編入。
- 与野市 (1958)
- 与野, 上落合, 下落合, 中里, 大戸, 鈴谷, 円阿弥, 八王子, 上峰
- 大字小村田村は、大字与野と合併。
- 中小村田は桜木4丁目辺り、上小村田は上小町、小村田は下小村田とも言う。
5. 今はさいたま市
埼玉県のさいたま市について、簡単にまとめてみる。
5.1. 名前の由来
- 埼玉の平仮名読み…。
一般公募の結果、最終的に落ち着いたのが、浦和・与野が推す「さいたま市」と、大宮が意気地になる「大宮市」だった。で、ごちゃごちゃ利権が絡み合って大宮が譲歩、「さいたま市」と決定した、みたい。
簡単な話、政治的にも文化的にも、浦和と大宮って昔から仲が悪いのよね。それに挟まれた与野はたまったもんじゃないって感じ。でも、公募結果見て、与野って大人だなぁと感じてしまう。浦和、大宮はそれぞれ自分の市名を候補に挙げてるけど (無論、それぞれの市に依存してる人達の応募でしょ?) 、「与野市」とか「よの市」てのは圏外、くだらん権力争いは放棄ってトコだろ。拍手。
しっかし、見れば見るほど呆れる名称が多いね(´o`)
▼公募結果
- 埼玉市 7,117
- さいたま市 3,821
- 大宮市 3,008
- 彩玉市 2,588
- 彩都市 2,495
- 浦和市 1,821
- さきたま市 1,374
- 大和野市 1,131
- 彩京市 1,025
- 彩市 962
- 浦野宮市 920
- 和野宮市 875
- 埼京市 827
- 新埼玉市 771
- 彩の国市 685
- 大浦野市 579
- 彩央市 506
- 宮野浦市 488
- 氷川市 486
- 大野浦市 479
- 彩国市 472
- 彩の宮市 459
- 新都市 372
- 未来市 360
- 彩珠市 356
- けやき市 350
- 武蔵市 350
- 彩光市 346
- さくら市 343
- 彩野市 280
- 埼都市 277
- おおみや市 258
- 埼央市 247
- うらわ市 240
- 彩たま市 234
- 彩宮市 225
- 関東市 217
- 中央市 208
- 大和市 200
- 大浦市 197
- 宮和野市 195
- みどり市 193
- 三彩市 183
- 和の宮市 181
- あけぼの市 176
- 和宮野市 170
- 見沼市 166
- 彩花市 166
- 平成市 166
- 新大宮市 164
詳細は、さいたまWeb / 「新市名称公募」結果のお知らせ (2014-04-15 リンク先確認済) をどうぞ。
5.2. 主に有名なもの
- 新都心
-
旧国鉄跡地を利用して作り出した、名前の通りの新都心。風の強い日はビル風に注意。スカートめくれ上がるよ。2004年、テレビのデジタル化をニラみ、新都心内に "さいたまタワー" 建設プロジェクトを発足。てか速攻誘致失敗、墨田区の東京スカイツリーに惨敗する。建設予定地は未だに空地 (駐車場) 。たまにイベントとかやってる。
西方面隣接に与野東中学校 (通称:与野トン) があるが、こっちからは一本だけ新都心に通じる車が走れる道がある。あとは歩道になってて、車の進入を禁止してる。所謂、抜け道を防止してるんだろな。つまり、新大原橋の新都心南から侵入するか、17号のトヨタカローラを右折して侵入するしか方法はないってこと。
新都心駅東側にはコクーンが誕生、映画館や食い物屋、スーパーがある。でも、食材の仕入れなら、イトーヨーカ堂隣接 (だよね?) のなべちゃん横丁をお奨めする。
- さいたまスタジアム
-
W杯でも使用された、約6万3千人収容のサッカー専用スタジアム。浦和レッズのホームスタジアムでもある。たまに、スタンドにダルマが転がってるw
- さいたまアリーナ
-
約3万7千人収容の屋内多目的会場。格闘技をはじめアメリカNBA、松田聖子なんかのコンサートなどでにぎわう。また施設内にはジョンレノンミュージアムがある (※2010年9月30日閉館) 。Queen もやってきて、Dの名前はPのおかげで、アリーナ全体に響き渡った歴史がある。
- Jリーグに2チーム
-
言わずと知れた浦和レッズに加え、大宮アルディージャが昇格。街は赤とオレンジで燃えてる。が、オレンジはしょぼい。てかオレンジと紺色って、がちゃってないかい?ちなみに浦和区のカラーは赤、大宮区のカラーはオレンジと決定した。あとは気にしてないし、どうでもいい。ちなみにあたしの守護色は赤・橙・紫だ。
5.3. さいたま市の年表
- 2001年 (平成13年)
- 浦和市・大宮市・与野市と合併し発足。
- 2003年 (平成15年)
- 現在の住所に越してくる。
- 2005年 (平成17年)
- 岩槻市が新たに参加。
6. 岩槻市、お前もか?
埼玉県の旧岩槻について、簡単にまとめてみる。
6.1. 名前の由来
- 岩付城からきた、みたい。南北朝時代 (1382年) の "岩付" が最初、して "岩月"、で "岩槻"。"槻" はケヤキの古名。岩月城にケヤキがたくさん植えられてのでこの漢字を使い始めた、らしい。じゃあなぜ "岩付" なのか、それは知らん。
6.2. 主に有名なもの
- 岩槻人形
-
日光東照宮の造営・修築にあたった職人達が、宿場町だった岩槻に居座り、人形を作り始めたのがはじまり。どっかの有名人も岩槻出身者。
- 岩槻城
-
室町時代 (1457年)、室町幕府に宣戦布告した足利成氏に対して、扇谷上杉持豊が重臣の太田道灌・その父・道真に築かせた城。太田道灌の養子・太田資家が初代城主。今は城跡だけが残るのみ。
- 日光御成街道
-
江戸から日光までを結んだ街道。その街道筋に岩槻はあり、江戸時代は北の守りとして岩槻城を重要視した。
- 幻の県庁所在地
-
埼玉県発足時、岩槻が県庁所在地となるはずだったが、交通の便など理由により却下された。未だに浦和にウラミを持つ者がいる。
6.3. 岩槻市の年表
- 1889年 (明治22年)
- 町村制施行により、岩槻宿が埼玉郡岩槻町に格上げ。
- 1954年 (昭和29年)
- 岩槻町、河合村、和土村、慈恩寺村、柏崎村、川通村、新和村が合併し、岩槻市が発足。
- 2005年 (平成17年)
- 4月1日、さいたま市に吸収され消滅…南無
資料
A. 名所一覧
社名、主祭神、住所、緯度経度、備考
A.1. 寺社
- 圓福寺
- えんぷくじ
- 真言宗智山派
- 山号:北明山龍光院、植田谷本村・林光寺末。
- 創建:大永元年1521年、円海が東光坊として創建。江戸幕府より、寺領5石の朱印状を拝領。
- 本堂:江戸中期の木造阿弥陀如来像、毘沙門天、不動明王。釈迦堂・木造釈迦如来坐像は、さいたま市の登録文化財。
- 与野七福神・布袋尊、北足立八十八ヶ所霊場15番
- 新義真言宗、植田谷本村林光寺末。北明山龍光院と号す。本尊弥陀を安す。開山円海大永元年寂す。古へ5石の御朱印を蔵せしが、延宝3年賊の為に奪われしより、収公せらるると云。釈迦堂、釈迦は安阿弥の作なり。蓮台の裏に承和2年4月武州品川の海中より出現のよし彫りてありと云。脇士阿難迦葉の像は運慶の作なり。近き頃阿難の像を修造せし時、蓮台の中より当寺9世の僧盛惠が正徳4年記せし書を出す。某略に中古本多佐渡守此邊へ陣屋を構へ、堂宇を破却せしゆへ、再び営建するよしをいへり。鐘楼。寛永18年鋳造の鐘をかく。銘文なし。(新編武蔵風土記稿より)
- 埼玉県さいたま市中央区上峰 4-7-28
- 35.877,139.61978